塾長blog更新『「倭の五王」の権力や支配の特質 大阪大学の入試問題』
2021/08/30
社会科の入試の論述問題は大学入試で急に難しくなります。
高校入試までは、例外もありますが、だいたい、おぼえている知識を適切に短文にまとめられるか、というレベル。
ところが、大学入試、特に国公立大学の2次試験になると、それでは太刀打ちできません。
教科書には明示的には書かれていない、それでいて高度な理解が必要なことが問われることも少なくないのです。
試験場で自分の持っている知識をさまざまに結びつけて考えて、数百字の文章にまとめなければなりません。
そんなわけで、国公立大学の2次試験の問題をチェックしているといい勉強になります。
また、将来の大学入試を見据えて、小中学校の段階でどの程度の内容を伝えておくべきか、小中学生を対象にした授業にも参考になることが多いんです。
今回はそんな問題の例として、2009年度の大阪大学(文学部)の日本史の問題から1題、取り上げてみます。
今回は大学受験生にも参考になるようなことが書ければ…、というよりも、むしろ日本史で受験する受験生の知識を前提にした内容になってしまうかな?
まあ、できるだけ分かりやすく書こうと思いますので、しばしお付き合いください。
大阪大学の日本史は、例年、「原始・古代史」「中世史」「近世史」「近現代史」から1題ずつ、4題出題されます。
すべて200字程度の論述問題で、90分で解答します。
2009年度(少し古いかな)の第1問はこんな問題でした。
- 「倭の五王」にかかわる考古資料や中国の歴史資料をあげながら、その権力や支配の特質について述べなさい(二〇〇字程度)。
「倭の五王」というのは、5~6世紀にかけて、中国の南朝に使者を派遣した五人の「倭王」です。
これは高校日本史でなくても、中学の歴史でも扱われる内容。
この中の一人、「倭王武」というのは小学校の教科書にだって、「ワカタケル」として紹介されていますね。
さて、教科書に載っている「考古資料や中国の歴史資料」としては次のようなものが挙げられます。
- 中国吉林省にある「高句麗好太王碑」には、4世紀末以降、倭が新羅・百済に派兵し、高句麗と交戦したことが記されている。
- 『宋書』倭国伝に、「倭の五王」として、「讃、珍、済、興、武」という五人の倭王についての記述がある。
その中の一人、倭王武は宋の皇帝に上表文を送り、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」の称号を求めるとともに、高句麗との闘いで自らへの支持を願った。 - 埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣や熊本県江田船山古墳出土の鉄刀の銘文には「ワカタケル(獲加多支鹵)」という「大王」が「天下」を治めたことが記されている。
この人物は「倭の五王」の中の「倭王武」に当たり、『日本書紀』・『古事記』に記された「雄略天皇」に比定されている。
また、これらの銘文から、地方の豪族が「大王」に仕え、そのしるしとして鉄剣や鉄刀を与えられたことがわかる。
倭王武の称号「使持節都督倭・百済…」なんていう細かい部分は措くとして、日本史で受験する受験生なら、この程度のことはすぐに出てくるのではないでしょうか。ぱっと見は、結構簡単そうにも思えますよね。
でも、問題文で赤字にした所に注目してください。
問われているのは、倭の五王の「権力や支配の特質」です。
ですから、上にまとめた内容をただ羅列しただけでは解答になりません。
これらの資料から、倭の五王の、つまりは4世紀末~5世紀の大和政権の「権力や支配の特質」について説明しなければならないわけです。
私の手元には2016年に検定済みの、つまり一つ前の版の『詳説日本史B』(山川出版社)の教科書がありますが、これを見ても、倭の五王の「権力や支配の特質」なんて、書いてありません。
高校生に書かせるのですから、かなりの難問だと思います。
でも、大阪大学はこのような、歴史上のことがらの「特質」や「性格」を問う出題が多いんです。
教科書に出ていることで、何か良いヒントになることは無いでしょうか?
実は地味なことがヒントになります。中学の教科書にも出ているようなことです。
先の『詳説日本史B』だと、前方後円墳の副葬品についてまとめた文章(p.24)に、次の記述があります。
副葬品も、前期には鉄製の武器や農工具などとともに、三角縁神獣鏡をはじめとする多量の銅鏡や腕輪形石製品など呪術的・宗教的色彩の強いものが多く、この時期の古墳の被葬者である各地の首長たちは司祭者的な性格をもっていたことをうかがわせる。
中期になって、副葬品の中に鉄製武器・武具の占める割合が高くなるのは、馬具なども加わって被葬者の武人的性格が強まったことを示している。
古墳時代前期から中期にかけての時期に、古墳の被葬者の性格が、司祭者的から、武人的へと変化するというところ。
この、古墳時代中期というのが、倭の五王の時代です。
そして、この「武人的」というのが、倭の五王の「権力や支配の性質」なんです。
つまり、軍事指揮者として日本各地の首長層を配下として掌握している、というわけです。
この視点から、前提的な知識を含めて、少し詳しく説明してみましょう。
少し回り道になりますが、ここで、中国の歴史資料について理解する上で前提となる、「冊封」についての説明をしておきます。
この冊封、近年は中学の教科書でも扱われるようになっていますね。
本来は中国皇帝が国内の臣下に王・公・侯・伯などの爵位と封地(領土)を与えることを指しますが、中国王朝と周辺諸国との関係を律するためにも用いました。
つまり、皇帝が周辺諸国の王に爵位や官号を与えて臣下とすることで、皇帝を中心とした身分秩序のなかに組み入れたわけです。
中国と冊封された諸国とは宗主国と藩属国の関係ということになり、周辺諸国の王は中国王朝の皇帝から庇護を受けるとともに、中国皇帝の臣下として中国王朝の暦を用い、中国皇帝に対して定期的に朝貢することが義務づけられました。
朝貢というのは、中国皇帝に対して貢物を送り、君臣関係を確認することです。
朝貢に対しては中国皇帝の返礼として回賜が行われます。
先の倭王武が宋の皇帝に大将軍の称号をもとめたのは、この関係にもとづいています。
これ以外でも、例えば卑弥呼が魏に遣使したことや、室町時代の勘合貿易も同じ。
勘合貿易は、室町将軍が明の臣下として冊封を受けて朝貢し、明皇帝から回賜を受けるという関係を「貿易」と言っているのです。
さて、倭王が南朝宋の冊封を受けた理由は何でしょうか。
倭王武が求めた称号が、「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」であったことからも分かるとおり、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするためです。
上表文からは、高句麗との対抗が背景にあったこともうかがえます。
では、なぜ朝鮮半島で優位な立場を築く必要があったのでしょう。
まず、朝鮮半島南部の鉄資源確保のためが一つ。
鉄資源を確保しようとしたというのは、つまり、武器の材料を確保しようとしたということです。
これは、中期古墳の副葬品には鉄製武器・武具が多くなることと結びつきます。
鉄器や須恵器、機織りや、土木技術などは渡来人によって伝えられました。
漢字もそうですね。漢字が伝えられた背景には、さまざまな記録や外交文書の作成が必要だったことが上げられます。
支配や政治の技術です。
つまり、倭王は朝鮮半島に出兵して鉄資源やさまざまな先進技術を確保したのですが、その過程を通じて、軍事指揮者として、出兵への動員を契機に、各地の首長を支配下にまとめあげていった、ということなんです。
倭の五王の軍事指揮者としての面について、やや詳しい内容を補足して、もう少し見て行きましょう。
埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘には、ワカタケル(獲加多支鹵)大王の時にオワケの臣(乎獲居臣)が「杖刀人の首」となって「天下を左治」したことが見え、また、熊本県江田船山古墳出土大刀銘にも「治天下」の語が見えます。
「天下」というのは中国皇帝が支配する世界のすべてを言います。
ここから、当時倭王が「大王」と称し、独自の「天下」と表現できるような支配領域を持っていたということが分かります。
また、「杖刀人の首」というのは、武器を持って倭王に仕える人ということです。
倭王が軍事的指導者として、各地の豪族を服属させ、統制して、「天下」と表現されるような支配領域を築いていたということですね。
「臣」という言葉からは、氏姓制度を思い出すべきでしょう。
氏姓制度というのは、一種の官僚組織ですから、倭王は服属した豪族を自らの官僚組織の中に組み込んでいったわけです。
以上の内容を「二〇〇字程度」でまとめると、こんな感じでしょうか。
「宋書」倭国伝には、五世紀に倭の五王が宋に朝貢し、安東大将軍などの称号を求めたことが見える。倭王は、鉄資源や先進技術を求めた朝鮮半島への進出を梃子にして、南朝の権威を背景に、軍事的指導者として各地の首長層を配下に組織していたのである。また、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘など国内の史料からは、倭王は国内各地の首長層を氏姓制度に組み込み、「天下」と呼ぶ独自の世界を治める「大王」と観念されていたことがうかがえる。(205字)
「二〇〇字程度」で書けることは意外に少ないのです。
日本史が得意で自信のある受験生ほど、「待ってました」とばかりに細かい知識を入れてしまって、字数が足りなくなったり、そもそも解答になってなかったり、などという失敗をしやすい問題ではないでしょうか。
求められていることは何かをしっかり把握した上で、何を入れ、何を入れないか、吟味しなければなりません。
大和政権、つまり、倭王を頂点として、そのもとに日本各地の首長をピラミッド式に組織した階層的な秩序はいかにして成立したのか?
教科書にはこのあたり、しっかりとした説明はありませんが、歴史学では、階層的秩序が形成される契機として、中国の王朝との関係を重視する考え方が有力なんです。
例えば「魏志倭人伝」で、卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印が与えられたことは小学校でも習いますが、実は同時に、魏に派遣された「難升米」(人名です)には「率善中郎将」、「都市牛利」(これも人名)には「率善校尉」という官職が与えられています。
魏王朝から、卑弥呼、難升米、都市牛利は、親魏倭王―率善中郎将―率善校尉というランクの上下で把握されているわけです。
難升米、都市牛利が邪馬台国を中心に連合している倭国の「クニ」の「王」だとすれば、邪馬台国の王を頂点に、そのもとに連合している「クニ」の王の階層的な秩序が形成されたことになるわけですね。
『宋書』倭国伝でも、倭王が「倭隋等一三人」に対して「平西・征虜・冠軍・輔国将軍号」に任ぜられることを求めたという記載があります。
「倭隋等一三人」は、いわゆる大和政権のもとに連合している首長たちでしょう。
倭王は自らが「倭王」や「大将軍」に叙せられるとともに、他の首長たちには「将軍」号を求めることで、自らの配下に組織しているわけです。
これを専門的には「府官制」と言います。
当時の中国周辺諸国の王が、自らが中国の王朝に冊封されるとともに、配下の有力首長層にも称号を求めることで、自らのもとに臣僚化していく制度です。
日本に引き付けてまとめると、倭王は宋王朝から冊封されるとともに、軍事指揮権や外交権、宋への官職推薦権を獲得・行使して、日本列島各地の首長層を氏姓制度のもとに臣僚化していった、ということです。
このあたり、古代史の研究では常識といっていいものですが、高校までの教科書では触れられていません。
倭王を中心とした秩序の形成という、歴史を理解する上では重要な内容とは言え、「日本史」という教科全体の中では細かすぎますので。
でも、2009年度の問題は、このことを前提にした出題ですよね?
大学の先生は研究者ですから、高校の授業で説明されるかどうかに関わらず、出題されてしまうのです。
そのことがらは日本史の中でどのような意義・意味をもっているのか、こんなことを研究動向も踏まえて勉強して行く。
言うは易しくても、実行するのは、高校生には難しい。
ここは、受験生を指導する側が意識すべきことになります。
また、一年間の授業でそんなことを扱うのも難しい。
小中学生の授業でも、少しずつ仕込みをしていく必要があるということでもあります。